自己紹介

はじめまして
藤中 眸(ふじなか ひとみ)です。

このブログ『次はどこへ旅する?』を作っています。
今回は、このブログを書いている私について紹介します。
もし、ご興味があれば長いですが、読んでみてください。

次はどこへ旅する?

このブログは、2019年からスタートさせました。

2カ国のワーキングホリデーを終え、私には何が出来るのか、何がやりたいのか考えました。答えは曖昧でしたが、海外にいても出来る活動がしたいと常々思っていました。

ワーキングホリデー前に、私はもう1つのブログ『TOEIC200点の女が海外ひとり旅した結果』をはてなブログで始めました。
実は、この無料ブログで、私はお小遣い程度の収入を得ていました。この収入をもう少し増やし、自分の今後やりたいことへの資金にしたいと思いました。

生い立ち

神奈川県横浜市で生まれました。
兄弟は4人、私は1番上です。

父の転勤のため、小学生のころは、神奈川、東京、千葉、岐阜、名古屋を転々としました。
大人しい性格でしたが、転校する度に強い性格へと変わっていきました。
習字、ピアノ、水泳、空手を習っていました。特に、空手で根性を鍛えられたと思います。

中学

嫁姑問題や、度重なる転校で、中学の頃はストレスで荒れていました。その代わり「バカに見える天才」に憧れていて、髪の毛を染めたり、授業を抜け出すことはあっても、塾には必ず通って勉強していました。

高校

地元では有名な進学校に合格しました。本当は、他に行きたい高校があったのですが、家から遠いため母に反対され、仕方なく進学校にしました。

しかし、行きたくなかったことと、他人から「勉強!」と言われると、全く勉強する気が起きず、テストはほとんど0点でした。特に、英語は壊滅的で毎日追試を受けていました。さらには、校長先生から呼び出され、校長先生の英語補習クラスを受けたこともあります。
慶応には入っていないけれど、ビリギャルでした。

父が厳しい人で、門限やピアス、携帯の使用などで頻繁に怒られました。泣きながら学校に行ったことも何度かあります。私が怒られるのを見て、下の兄弟たちは悪いことはしなかったそうです。
怒られたことは多々ありますが、父のことは尊敬していて、進路相談は父にしていました。

大学

4年制の大学に、かろうじて現役合格しました。地元では有名で、全国でも多少の知名度はある大学です。その大学の、偏差値が1番低い学部に入学しました。

アルバイト

大学はあまり行かず、アルバイトばかりしていました。3つ掛け持ちしていた時期もありました。

やっていたアルバイトは

  • スーパーのレジ
  • 携帯電話の販売と受付
  • ゴルフ場のイベント運営
  • ポルシェのオーナーカードの受付
  • ニトリ

でした。

特に、携帯電話の販売は大学4年間続け、リーダーも任されました。
この時に、尊敬する先輩がいました。見た目も綺麗で、接客も上手、常に売り上げ1位、まわりとのコミュニケーションも上手な人でした。
私は、1年目はほとんど売れず、やる気もそこそこでした。しかし、その先輩が育ててくれたことで私はリーダーまで上り詰めました。
最後は、尊敬する先輩を抜いて売り上げ1位になりました。先輩は本当に素敵な人で、悔しいとも思わず、本当に頑張ったねと褒めてくれました。

売り上げ1位という経験は、私にとって大きくて嬉しいことでした。
また、かなりの人見知りな性格でしたが、この販売経験によって克服できました。

システムエンジニア

大学卒業後、東京のIT会社に就職することができ、SE(システムエンジニア)として勤務しました。

しかし、文系卒業でITの知識は全くなく、会社に入ってから猛勉強しました。
部長からは、「あいつはダメだろう」と影で言われていたことを知っていました。この意味は、会社にとって"使えない人間"ということです。

正直、私もこの仕事に対してヤル気もそこそこで、ムリだと思っていました。数学がとにかく苦手で、2桁+2桁の計算でさえ遅いし間違えるほどです。文系の私には、2進数の計算が理解できませんでした。
プログラムも、配列が理解できず、エラー祭りで、仕事のできない人間でした。

さらに知識がないため、上司からの指示にIT用語が入ると、全く理解できませんでした。見かねた上司はいつも「小学生に話すとね」と見下しながらも、内容を噛み砕いて教えてくれました。

部長からは「基本情報をとれ!」と強く言われていました。IT業界では、この基本情報技術者試験は初級段階です。私が初めてこの試験を受けた時、100点満点中36点でした。合格点は60点です。

勉強を少ししましたが、再受験した時に40点しか取れませんでした。部長と、私のOJTの女性社員からは、完全に見放されていました。OJTの女性が、表向きでは「頑張って」と言って、裏では私の批判をしていたことも知っていました。

そんな会社から見放されていた私に「頑張ればできるよ!」と、勉強方法を教えてくれた主任が1人だけいました。私が何か失敗すると、この主任が部長から怒られます。とってもいい人で、何度も励ましてくれたので、この主任に迷惑をかけないように頑張ろうと思いました。

仕事を終えて、帰って勉強しました。しかし、どう勉強していいのかわからず、資格の学校に通いました。その甲斐あり、基本情報技術者試験に合格しました。

私は会社で泣きながら、すぐに主任にお礼を言いに行きました。その後、主任に促されて部長にも伝えました。(本音は、部長とは話したくもなかったですが、主任に言われたので仕方なく行きました。)

部長も見直してくれ、3年目でプロジェクトリーダーにも任命されました。
何より、努力で自分が変われたこと、部長を見返したことが嬉しかったです。部長だけでなく、他の先輩社員の態度も激変しました。

プロジェクトの期間が終わるタイミングで、退社しました。客先からの継続要望もあったのですが、私の契約で部長の株が上がることが腹立たしく思えたため、退社を決意しました。また、この部署でやりたいことが出来なかった、他のことをしてみたいといった理由もありました。そして、もう1つが躁鬱になったからでした。

両親の離婚

私の就職直後、両親が離婚しました。当時、私は家を出て暮らしていたため、自分のせいだと自分を責めました。この時には、原因はわかりませんでしたが、数年後に父の身勝手だとわかりました。

母はずっと専業主婦で、父のプライドのために仕事をすることを父から禁止されていました。そして、40歳を過ぎてから急に、父に捨てられました。子供が成人していたため、養育費や生活費はなしでした。
母は、生活のために急に働かなくてはならなくなり、就職しようと頑張っていました。母の見た目は若いのですが、年齢で書類審査に受からないということが続き、苦労しているのを見ていました。

兄弟は成人していたものの、大学に通っていたため、大学の授業料が必要でした。私はその授業料を母から立て替えましたが、結局は返済を踏み倒されました。

私は、仕方なかったとはいえ、母からの裏切りがショックでした。返済の目処が立っていないことは理解していたので、待つつもりも、最悪あげるつもりでもいました。せめて、もう少し待ってほしいと言ってほしかったのに、完全に踏み倒され、私は母への信用を失いました。

そして、躁鬱という、鬱の手前の病気になりました。

原因は、母だけでなく、仕事の残業と休日出勤(残業代は出ていたのでブラック企業ではありません)、部長や先輩の仕事からのストレスなどでした。

私の躁鬱の症状は、

  • 会社に行く前に吐き気がする
  • (会社に行く途中に)ゴミ捨て場を見ると吐き気がする
  • ゴミ捨て場にいるカラスを見ると吐き気がする
  • 仕事中に吐き気がする

でした。
吐き気という症状だったので、消化器科へかかりましたが異常はなく、精神科への受診を勧められました。

我慢して仕事していましたが、徐々に顔の左側が崩れてきました。これ以上の顔の崩れが恐ろしくなり、仕事を辞め、ストレスを1つ減らしました。

吐き気はあるものの、鬱を理由にしたら人として負ける気がしたので、すぐに別の仕事を探しました。

大手スポーツ関係会社

退社後は、大手のスポーツ関係の会社に転職しました。
ITとは全く別の、受付及び営業という職種で働きました。私の営業のお客様は、一般から会社の会長まで、様々な方でした。

アルバイトで培った経験を活かし、接客は問題ありませんでした。
しかし、また知識不足に悩みました。スポーツ関係のため、スポーツのルールや選手、歴史を知っておく必要がありました。ルールや選手を勉強し、こちらも1年目で売り上げ1位を獲得しました。

鬱の症状は多少ありましたが、仕事が楽しかったことと、自分のペースで仕事ができたことで、ストレスはほとんどありませんでした。

ワーキングホリデー

仕事は楽しかったのですが、何かまだ他のことがしてみたいと思っていました。

そして、ふと海外へ行きたいと思うようになりました。

急にワーキングホリデーに行くことを決意し、留学エージェントに話を聞きに行きました。その時、私は7社のエージェントに相談し、はてなブログに記事にしました。

私の英語力は中学生レベル、TOEICは200点代でした。英語は全く聞き取れない、喋れない状況で、生活出来るのか、仕事が出来るのかと不安ばかりが募りました。

セブ島留学

ワーキングホリデー前に、英語を勉強するため、セブ島の語学学校へ通いました。

1ヶ月という短期でしたが、英語力の伸びを感じていました。

オーストラリアのワーキングホリデー

オーストラリアのシドニーで、ワーキングホリデーをスタートしました。シドニーでは2ヶ月の語学学校を予約していました。しかし、フィリピンの学校と比較するとレベルが低かったこと、ブラジル人の授業妨害などがあり、学校には1ヶ月ほどしか通いませんでした。

仕事は、日本食レストランのウェイターとツアーガイドを掛け持ちでやっていました。しかし、どちらも英語は使わず、ほとんど日本語で出来る仕事でした。海外に来たのに、自分は何をしているんだろうという虚しい気持ちになり、2ヶ月ほどで辞めました。もちろん、日本食レストランで学んだ英語もあり、無駄ではなかったと思います。それでも、虚しさが勝ってしまいました。ワーキングホリデーは1年しかないため、自分のやりたいようにやらなければ、すぐに終わってしまいます。

シドニーでは、日本人も多く、毎日のように同じ日本人の友達と飲み歩きました。楽しかったのですが、日本と変わらない生活に、なんとなく不満や不安がありました。このまま続けていたら、英語を全く話せず帰国するような気がしました。

シドニーにいたら自分は変われないと思い、都市移動することにしました。

また、シドニーを出る時、シェアハウスのオーストラリア人オーナーからの詐欺に遭い、さらにシドニーが嫌いになりました。オーストラリアの警察にも通報しました。

私は3ヶ月でオーストラリアが嫌いになっていましたが、英語を話したい意思があったため、メルボルンへ引っ越しました。到着した時期が冬だったため、日本人はほとんど暖かい都市に移っていていませんでした。もうシェアハウス選びに失敗したくなかったため、仕事と住む場所が同時に見つけられる、ファームの仕事を探しました。運良く1日で見つけることができました。

しかし、ファームは日本食レストランよりも最低な環境でした。こちらも記事に書いています。オーナーの韓国人は英語がほとんど話せず、私はセカンドビザ目的でもないため、3日で辞めました。その後は、別の日本食レストランでセクハラを受けて数週間で辞めました。

シェアハウスの居心地が良かったのですが、オーナーの都合で出なければいけなくなりました。その時、また仕事と住む所が同時に見つけられる、オーペア(ナニー)の仕事を見つけました。ベビーシッターのような仕事です。

オーナーさんは社長でした。気が強いけど、とてもいい人で、尊敬は出来なかったけれど、私の憧れの生活をしている人でした。

社長は、私のことを高く評価してくれて、色々なアドバイスをいただきました。「どこでも仕事できるようになりなさい、眸ちゃんならできるから」と言っていただきました。

この言葉が強く残っていて、私は必死に自分に何が出来るのか考えました。

また、社長の知り合いの別の社長さんや、有名人と関わることもできました。ビジネスの成功者に会い、なんとなく私も感化されました。

英語のほうは、ランゲージエクスチェンジを自分で始めました。オーストラリアのサイトで募集し、5人くらいと会い、練習しました。そのおかげで、だいぶ英語力は伸びました。

帰国

オーストラリアは楽しいこともあったけれど、イヤなことが多すぎたため、嫌いだという思いが強くなり、半年で帰国しました。まだビザも残っていたけれど、再入国したいとは1度も思いませんでした。

日本で再度、スポーツ関係の同じ会社で働かせてもらいました。外国人の対応を任せてもらうこともでき、以前より英語力が伸びたことを感じました。しかし、コミュニケーションを簡単にとれる程度で、ビジネスとして話せるわけではありませんでした。

お金を貯めて、もう一度留学したいと思い、掛け持ちでジュエリー販売、Marc Jacobsの販売、リゾートバイトをしました。

カナダのワーキングホリデー

友達がカナダでワーキングホリデーをしていたこともあり、私もカナダへ飛びました。
今度は、学校に行きたくなったら行く、という気持ちでいたため、語学学校には通いませんでした。

到着してすぐに、シェアハウスと仕事を探しました。幸い、どちらもすぐに見つかりました。

仕事は英語環境で働きたかったため、マッサージの受付と、大きなお屋敷のお手伝いをしました。受付では電話を取らなければいけないため、英語での電話が出来るようになりました。しかし、中国人オーナーが嘘つきで、給料もしっかりもらえなかったため、足りない給料をもらってすぐに辞めました。

次に日本の加工食品工場で働きました。日本人の働いているおばちゃんが、あまりにも英語が話せないため、こんな風になりたくないと愕然としてすぐに辞めました。

その後は、カナダの会社に勤めることができました。日本人は私だけで、社長もリーダーもカナダ人、他にはヨーロッパ、インド、フィリピンなど多国籍でした。

みんな真面目に働くけれど、上手く手を抜いたり笑い話をしたりしていて、コミュニケーションやチームワークがしっかりとれた環境でした。リーダーが特に面白い人で、常にみんなを笑わせてくれて、場を明るくしてくれました。英語以外にも学ぶことが多くあり、リーダーには感謝しています。
この会社で半年ほど働き、ビザの関係で退社しました。

カナダは楽しかったので1年住み、ヨーロッパを少し旅して帰国しました。

今後

私は、未だに何がやりたいのか見えていません。しかし、自分が今できることを考え、自分の経験したことをブログに書き溜めています。

特に、オーストラリアではツライことが多くありました。これを伝えることで、他の被害者を減らすことが出来れば幸いです。残念ながら、名前や住所などの個人情報を書くことは法律で禁止されているので書けません。しかし、何らかの形で伝えられると思い、記事にしています。

また、今後は親孝行をしていきたいと思っています。身勝手な父ですが、私の海外生活をサポートしてくれました。母も子供も捨てた父ですが、私にとっては父です。将来的には、何か恩返しが出来るようにしたいと考えています。その前に、母が楽な生活を送れるように、何かしてあげたいと考えています。

現在は、ニュージーランドのワーキングホリデーを計画しています。それが最後のワーキングホリデーになると思います。

長い紹介になりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。